芥川賞受賞に向け、その第一歩となる文芸誌掲載を目指す『介護ガール』の「本線」は、現在のところ以下の投稿で構築されています。
投稿No.1(佐藤友哉)、投稿No.2(佐藤友哉)、投稿No.3(佐藤友哉)、投稿No.4(佐藤友哉)、投稿No.5(渡辺浩弐)、投稿No.9(佐藤友哉)、投稿No.10(佐藤友哉)、投稿No.11(佐藤友哉)、投稿No.16(佐藤友哉)、投稿No.22(佐藤友哉)、投稿No.23(佐藤友哉)
・最初だから仕方ありませんが、佐藤さん採用されすぎ!
・今後の進めかたとしては、投稿No.23以降を書かれるのが良いのではないでしょうか。
・投稿No.23以前で、「もっといい案がある」と思われた方は、そちらに「分岐」してみるのもアリですね。
・滝本さんがお書きになった「仏壇の中の写真」の伏線も、まだ手つかずです。
・もう少し待ってから、佐藤も「本線」に投稿しようと思います。
芥川賞受賞にうってつけの内容が観測された場合、「本線」はそちらに移動します。「本線」は常に流動しているとお考え下さい。
さらなる投稿、お待ちしています。
1
「まさかナマコでこんなことになるなんて」
呟いてみたけど笑えない。
親がナマコインフルエンザで死んだなんて、冗談にもならなかった。
地球に猛威をふるうこともなく終わったナマコインフルエンザの死者は世界で七人で、そのうち二人が私の両親だった。これもまた笑えない。 だから一人、電車に揺られている。
窓の向こうに広がるのは、風景というよりも色……緑だ。昨日まで見ていたものとはまるで違う色に、少し困惑する。私は緑なんて知らないし、いらなかった。
田んぼに刺さった二体の案山子が、なわとびでもするみたいにロープを持っている。そこには古ぼけたCDが吊るされていたけれど、どちらにも現実味を感じられなくて、とりあえず視線を遠くに向けてみた。
山。
これから暮らす村は、あの山を越えたところにある。
電車がトンネルを通るたび、私の体は村へと近づく。
なのに何も知らないなんて。村の名前も、厄介になる家のことも知らないなんて。
ポケットの中であばれる携帯電話を開くと、戦争君からメールがきていた。
『こんちは。元気。いつ帰ってくるのーー?』
びっくりした。
今こうして移動中の電車に乗ってるのに、戦争君はそれを知っているはずなのに、なぜこんなメールを送ってくるのだろう。
『まだ出発したばかりだよ。あと、いつ帰れるかはわからないよ。私ちゃんと教えたよね?』
『そうなんたーわかった』
びっくりした。
電車に流れる冷房は弱くて、背中が汗っぽい。髪にも熱がたまっている。車窓から見えるのはやっぱり緑だけ。携帯電話の電源を切る。当たり前だけど画面が真っ暗になった。
ぼんやりした苛立ちが終わらない。
新生活。
って言葉を、だからわざと思いついてみる。
自分に向けてのサービス。
うん……わりと上出来だ。
2
それから一時間か二時間かは解らないけれど、少しばかり長い時間がすぎて、電車は駅に到着した。
時計を見ると午前十一時。
まだこんな時間かと思う。
いくつもの電車を乗り継いだので、最初に乗ったのが何時かは忘れたが、とても早かった。今日ほどの遠出も、今日ほどの早起きもひさしぶりだった。
小学四年生のとき、小さな山まで遠足に行ったことがあったけれど、その日よりも早く起きたことは今日までなかった。小中高通して学校は遅刻の常習犯で、バイトも夜の仕事(ガソリンスタンドとかカラオケの店員とかだけど)以外は無理だった。
早起きがこんなに気持ちいいことを、今まで忘れていた。きっとまた、すぐに忘れてしまうだろう。 駅の階段を降りたとたん、改札が見えた。
私は切符(切符を買うなんて何年ぶりだろう。最近は自動販売機にも小銭を入れていない)をポケットから取り出して改札……が、自動改札機じゃない。切符を渡そうにも駅員がいない。
なので突破した。
怒られなかった。
周囲を見回してみたが、駅員どころかお客さんもいなかった。木造の狭い駅舎には、カレンダーやら時刻表やらが大量に貼りつけてあるけれど、それを読む人は皆無だ。床も腐っているみたいで、ふやけた感触が足元から伝わる。
駅を出ると、そこはもう一面の畑。
太陽と青空と砂利道とひまわりが似合いそうな風景には、太陽と青空と砂利道が実際にあった。ひまわりだけがない。
私はミュール(ラメの入った買ったばかりのお気に入り)を履き直すと、コロコロを引いて歩き出す。
どうしたって不幸だけど、悲しんでばかりもいられないし、本当に悲しいのかも解らないから歩き出す。
ナマコインフルエンザを、どうやって処理すればいいんだろう。両親の死を、どうやって感じればいいんだろう。それが良く解らない。
ナマコインフルエンザで両親が死んだとき、周囲のリアクションは薄かった。たぶんみんなも、『ちょっと良く解らな』かったのだろう。
ナマコインフルエンザが姿を消して以降、ニュースは別の話題で盛り上るし、世間は苦笑してるし、それでも両親は確かに死んじゃったし、気がついたら葬式がすんで、気がついたら火葬場で両親が燃やされていたから……愕然? で合ってる? それになった。それになったような気がするの。
親の骨を見るのは、疲れる。
母親に金歯があることを、私は母親が骨になるまで知らず、父親に至っては骨まで見たのに発見がなかった。
小学四年生の遠足を終えてからの私は、とても簡単にいえば、何もしていない。
運動会も宿泊学習も修学旅行もテスト勉強も受験勉強も大学受験もしていない。
結果、十八歳高卒無職になった。
だけどそうした親不孝より、親の骨を見る親不孝の方が強い。
そんな私は火葬場で声をかけてきた親戚から、私を引き取ってくれる奇特な身内がいることを聞かされて、この村にやってきたのだった。泣きもしないで。
砂利だらけの道に、ヒールの高いミュールは辛くて、私は立ち止まる。コロコロのタイヤも小石に引っかかるし、降り注ぐ太陽の光も都会とは違って、まっすぐに落ちてくる感覚。途中でバス停を見つけたけれど、二時間も待たなくちゃならなかった。私はバスなんて使ったことがない。
髪が熱かった。
あと埃っぽい。
これで泣く子もいるんだろう。
私は渡された手書きの地図を取り出して位置を確認すると、コロコロ(このバッグの正しい名前が解らない)を引いて再び歩き出す。
馬小屋(だったもの)と豚小屋(だったもの)を横切り、原っぱの奥に放置されたバスを見つけ、林を横手に進んだところで、ようやく村が姿を現した。
……いや。
限界集落。
って言葉をテレビで知ったが、まさにそれ。
青いトタン屋根の家。見捨てられた家。見捨てられた畑。油の染みた木の電柱。そこに貼られた見たこともないドリンクの看板。人が住んでいるようには見えない。だってどこにも店がないから。
コンビニがなければパンも買えない。
パンも買えない村とは思わなかった。
店がないのは人がいないからで、人がいないのは村が終わったから。私がそんな村にやってきたのも終わったからで、つまりみんなもう終わり。
3
目的の家はすぐに見つかった。
トタン屋根ではなかったし、窓も壁も壊れていない、ごく普通の二階建て住宅だ。もし犬小屋あるとすれば、中で寝ているのは柴犬だろう。
私は汗をぬぐうと、髪を整え、ワンピースの裾をばたつかせた。身内といっても今日まで会ったことがなく、ナマコインフルエンザが発生しなければ縁のなかった程度の関係だ。身だしなみはしっかりする必要がある。
インターホンを押す。返答なし。
もう一度押す。やはり返答なし。
さらに何度も押してみたが反応しないので、接触不良を疑って叩いてみた。
植木鉢が落ちてきた。
耳もとをかすめた植木鉢は地面に激突して、派手な音を立てて割れた。
飛び散った土が、足を汚す。
顔を上げると、二階の窓から腕が伸びていた。
背中を起点に寒気が走る。
なのに、耳の裏側は熱い。
引き戸の把手に手をかけた。
鍵はかかっていない。
私は家に入った。
マンション住まいだった身からしてみれば、びっくりするほど大きな玄関には、長靴が一つあるだけ。あとは何もなし。本当に何もなし。私はミュールを蹴っ飛ばすように脱ぐと、階段を駆け上がった。
二階にはやたらと段ボール箱が積まれていて、林檎や蜜柑といったフルーツの絵が描かれていた。何が入っているのか知らないが、重たくて動かせない。なので隙間を縫うようにして進み、奥まったところに一つの部屋を見つけた。
中に入った瞬間、むっとする異臭。
わりと広い部屋だった。
開け放たれた窓がある。
窓柵には複数の植木鉢。
壁際にはパイプベッド。
そこに……何かがいた。
私の脳は最初、それを『ヒト』とは認識しなかった。
どちらかといえば、『モノ』だった。
だけどそれは確かに『ヒト』だった。
さらに云ってしまえば、老人だった。
「っっせえなあああああ! お前よぉ……インターホンは一回押せば聞こえるだろうがよおおおおぉ。一回! 一回でええええ!」
こんな声ってあるだろうか。
こんな対応ってあるだろうか。
だから私はぞっとしたし、そう叫ぶ老人の首が折れそうなほど細いことにも気づいたけれど、あるがままを受け入れるっていうのかな? そうすることを自分に命じた。そうすることが正しいと信じた。
「これからお世話になります。渡辺マヤと云います」私は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「あ?」
「ほかに誰かいないでしょうか」
「……ああ。あーー」ベッドに横たわる老人は、ほとんど震えながら頭を上げた。
「なるほどなぁ。そういうやり方か。そういう返し方か。解った解った。お前はまったくな! ずるいやつだな!」
「ほかに誰かいないでしょうか」
「この家にゃ、俺しかいないよ」
「え、でも」
「黙りな。お前がびっくりしようが、がっかりしようが、俺しかいない」
「ご家族は……」
「お前が家族に関して何を云えるんだ。みなし子が」
「もしかして、あなたが私を引き取ってくれた身内の方ですか?」
「そうだ。そのご本人様だ。ほかに別の考え方があるってのかよ。なぁ、お前はいろんなことを何度も云わせるのが趣味か? ああインターホンもそうだったなあ。くそ……インターホンも何回も押すなああああああ!」
怒鳴られた。
私はとにかく瞬間的に疲れ果てて、ちょっと意外だったけれど、戦争君のことを考えた。
4
一階にある和室が、私の新しい部屋だった。
和室に憧れたことは一度や二度はあったけれど、やっぱり不便だった。というか違和感があった。
コロコロの中から、衣服だのポーチだのドライヤーだの化粧品だのをひっくり返しても、部屋が自分の色にちっとも染まらない。
私は畳の強固さにとまどいながら視線を動かして、本当にとまどっているものを見る事にした。
飾り棚に、大きな仏壇が置かれていた。
ほこりをかぶった、長いあいだ手入れのされていない仏壇。
私の家はナンマイダブじゃなかったので(というより、何を信仰しているのか知らないのだが)仏壇は見慣れたものではなかった。
黒塗りのそれに手を伸ばした。
ここは今日から私の部屋なのだから、仏壇をチェックする権利がある。
両開きの扉を開けた。
中には写真があった。
モノクロの古ぼけた写真には、学ラン姿の若者が映っていた。
だけど、その顔は解らない。
マジックで黒く塗り潰されていたからだ。
私は見なかったことにして仏壇の扉を閉めた。
忘却を終えた私は、和室を自分色に染めようという欲望も忘却することにした。畳と仏壇と襖で構成された部屋を、手持ちのアイテムでコーディネイトするのは難しい。
とりあえず携帯電話を充電した。
人は電気があれば生きていけるし、こんな村にも電気は通っている。
「ふう」
わざと溜息を吐いてみた。
新生活。
って言葉を再び浮かべてみる。
だけどそのサービスはもう通用しなくて、私を上機嫌にはさせてくれなかった。
戦争君にメールしようと携帯電話に手を伸ばしたけれど、何を報告すればいいのか解らない。あとついでに、戦争君にメールする必要があるのかも解らない。そういえば戦争君とどこで知り合ったのか完全に忘れている。
私は充電中の携帯電話を見るともなくみながら、子供電話相談室にでも連絡してみようかと生まれてはじめて思った。
「ぃぃいいいいいいいいいいいいいいいい」
奇声。
そうした私の発想を潰すほどの奇声。
「ぃいいいいいいいぃいぃいいいいいい!」
二階から響くそれは、家全体が騒ぎ立てているように、妙なくらいに良く響いた。
そして私は停止する。
どうすればいいのだろう。
お気に入りのミュールを履いて、それで本当は行くはずだった町にくり出して、買えるものを買えるだけ買って、そのままどこかに逃げてしまえばいいのだろうか。
私はそれを実行するほどの馬鹿じゃなくても、ほかの方法がさっぱり思いつかないほどには馬鹿だった。
奇声は終わらない。
何一つ終わらない。
……違う。
まだ、何も始まっていない。
これは新たな日常の初日でしかなく、これから私には両親のいない新生活が、ひどい村での新生活が待っていて、それがいつ終わるのかは誰にも解らない。十年つづくのかもしれない。一生つづくのかもしれない。
だったら、やることは一つ。
私は二階に向かった。
停止をつづけているよりは全然まし。
段ボール箱の山をかき分けて、例の部屋に入る。
ベッドに横たわる老人は、頭だけを器用に起こして叫んでいた。
「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
「ごめんなさい。あの、ちゃんと云って下さい」
そう頼むしかなかった。
「あなたの言葉が解れば、何とかなるかもしれません」
「言葉?」
一瞬にして奇声が収束する。
「言葉か。言葉ときたか! お前ごときが! まったく!」
「どうして怒られてるのかはともかく、私だって言葉くらい解ります」
「思い上がるな。駝鳥よりも低能のお前に解ることなんてあるものかよ。言葉を大切にしたことがあるのかよ」
「私、そんな難しいことは云ってません。ちゃんとした日本語を話して下さいと云ってるんです」
「俺をボケ老人あつかいする気か!」
「このままでは、そうなります」
「はっ! その判断をするのはお前じゃないか。頼りない! 説得力がほしいところだよ!」
老人はしわだらけの顔に、さらなるしわを追加した。
あれで笑っているのだと、少し経ってから気づいた。
「説得力がほしいなら」
私は云う。
「これからは大きな声を出さずに、普通に会話して下さい。それなら私、説得力のある対応ができますから」
「叫んだのは悪かった」老人は意外にもすぐ謝った。
「俺は二階。お前は一階。声が届かないと思ってな」
「つまり、私を呼び出したわけですね。サイレンみたいな声で」
「後半が皮肉だとすれば出て行け」
「すいません」
「お前を呼んだのはなぁ、当たり前だがお前に用があったからだ」
老人は云う。
「昼飯を作れ」
「……ひるめし?」
「とぼけ顔をやめろ。今が何時か知っているか」
「十二時くらいですかね」
「正解だ。大したものだよ。腹時計がなせる技かな。お前は意地汚い女か?」
「自分をそんなふうに思ったことはありません」
「ごたくはいい。昼飯を作れ」
「私、お手伝いでこの家にきたんじゃありません」
「だったら、どういう立場できたわけだ。ああ?」
「立場なんてありません」
「そんなことはない。立場もなしで、人が生きていられるかよ。駝鳥以下の頭で、良く考えろ。そして答えろ。お前はどんな立場でこの家にきたわけだ」
「私は、両親を失った未成年として、あなたの家に厄介になる者です。それが私の立場です」
「その判断をするのはお前じゃないか」
老人は笑うと、致命的な一言を放った。
「いいか……お前は、お荷物だ。みなしごだ。親戚一同から見捨てられて、本当の意味で厄介。奴隷以下さ」
いくつもの刺激的な言葉が浸透するのに、それほどの時間はかからなかった。
心のどこかで認識していたことだし、そもそも客観的に見て明らかでもあった。
これで泣く子もいるんだろう。
これで死ぬ子もいるんだろう。
だから私は、人生で最大に近い努力と根性を発揮して、精いっぱい……ほほえんでみせた。
笑顔を浮かべるのはひさしぶりだった。まかさひさしぶりの笑顔が意識的なものになるとは思わなかった。
「いい顔じゃないか」
老人は呟く。
「無知で、傲慢で、恥ずかしい顔だ」
「そのつもりです」
「立場を認識したのなら、さっさと昼飯を作れよ。寝たきりの老人に、義侠心を見せてくれよ」
「承知しましたが、何を作ればいいんですか。オムライスと、パスタと、カレーくらいしか……」
「俺は子供か。んなものはいらん。ラーメンサラダが食べたい」
「ラー……サラ?」
「略すな。ラーメンサラダだよラーメンサラダ」
「その、当たり前みたいな感じで云われてもこまります。何ですそれ。初耳ですけど」
「だから……ラーメンサラダっつてるだろ」老人の頬が震え始める。
「なぁ、ちゃんと云ってるだろうがよ。そうだよなぁ。日本語を使ってなぁ。だよなあ! お前の命じた通りに日本語を使ってさあああああ!」
「大きな声を出さないで下さい。ラーメンサラダですか? そのレシピさえ教えていただけたら……」
「うっせええああああああああ! お前作る人! 俺食べる人!」
通じない。
偏屈な怒りの中に閉じこもり、老人はただ叫ぶだけ。
「怒鳴らないで下さい。レシピが解れば、私、ちゃんと作りますから」
私は辛抱強く云った。
「いい加減にしろよこのおおおお……なっ、なあぁあ、な、何を考えてんだよおおお! レシピなんて云ってんじゃねえ! くそ、くそがよおおお!」
老人の右腕が動く。
乱暴に窓を開けると、植木鉢の一つをつかんだ。
私は反射的に部屋を飛び出した。
閉めたばかりのドアに、植木鉢が激突する音が響いた。
私は階段を駆け降りると、そのままリビングとつながったキッチンに入る。
だけど、ラーメンサラダなんて知らない。
食べたこともないし、聞いたこともない。
そんな食べ物がこの世にあるのを知ったばかりの私が、この世にいるのを知ったばかりの老人に、どうしてそれを作ってあげなくちゃならないの?
……違う。
なかなか冷静な自分が指摘する。
それは私の立場。
それが私の立場。
『親が死んでもお腹は減る』という有名な言葉を、今日まで間違って覚えていたのを知る。
私は今までその言葉を、自分の胃袋にしか当て嵌めていなかったが、他人の胃袋についても同じことを云っていたのだ。
自分の胃袋を満足させるためには、他人の胃袋を満足させなくてはならない。
「ふう」
溜息を……わざと一つ。
思った以上に、上出来。
私は急いで和室に戻る。
充電中の携帯電話を開くと、さっそくツイッターにこう呟いた。
『ラーメンサラダなう』
5
老人の部屋から、とぎれとぎれの奇声が聞こえてくる。
なんだかいたたまれなくて、私は携帯電話を持ってキッチンに戻った。
けど何をしていいのか、わからない。じっと手を見る。てのひらの、ケータイ画面を見る。
タイムライン上にはもう、私のツイートへの@返信がいくつか並んでいた。けれど、
>ラーメンサラダなにそれおいしいの
とか、
>どこで食べてんの
とか、そんなのばかりだ。
>ラーメンサラダの作り方を教えてほしいの。ふざけてんじゃなくて、まじで。拡散希望。
今度はそう書き込んでみた。
それから改めてキッチンを見渡した。殺風景だけど、使われていない感じではない。
この老人は今までは自炊していたのだろうか。材料はどうしてたんだろう。買い物に出かけられそうには見えなかった。配達してもらうのだろうか。
それとも誰か、この老人の世話をしに来る人がいるんだろうか。オカズとか持ってきて、ご飯くらい炊いてくれる人が。この、ひとけのない村に。
冷蔵庫に歩み寄り、取っ手を引いてみた。開かない。もう一度、強く引いてみたが、だめだった。鍵がかかっているようではなく、ぬまあ、と、少しだけ開きかける感触というか、粘着力の抵抗があることが気にかかった。
6
力まかせ。
って言葉とはずっと無縁だった私だけど、そういうのがこれから必要になってくるのは解っていたので、今度はもうちょっと集中して、再び取っ手を引いた。
しばらく力を入れていると、飽きっぽい猫のように抵抗がぷつんと消えて、冷蔵庫のドアが勢い良く開かれた。
デボン紀が出現した。
ほとんど反射的に閉めてしまったので、細かいところまでは見えなかったけれど、冷蔵庫の中に一個の森が生まれていたのは確かだ。まだ文明は築かれていなかったが、シダ植物みたいな緑色の物体が映え、ねとねとした粘菌が繁栄して、かつて卵だったものや野菜だったものが見えたのだから。
嫌な寒気が遅れてやってくる。
背中だけが怖いくらい冷たい。
私は水道水で両手を洗った。何度も洗った。直接触れたわけじゃないけれど、洗わずにはいられなかった。
とりあえず落ちつくまで手を洗うと、なるべく冷蔵庫を見ないようにしてキッチンから離れる。
とはいえ和室に戻るつもりもなかったし、二階に行くつもりはもっとなかった。
居場所がない。
わりと困った。
改めてツイッターを見ても、ラーメン屋の店主が真剣すぎてどうとか、サラダの国のトマト姫がこうとか、わけのわからない言葉ばかりが流れて、かんじんのラーメンサラダの作り方はちっとも書かれない。どうして話が都合良く進んでくれないのだろうか。
まさかラーメンサラダで世界の残酷さを知るとは思わなかった。
軽く沈みそう。
こんなふうに泣きながら終わってしまう子もいるんだろうが、私は虐待に負けるほどの子供じゃないし、自分を助けることもできる。
ツイッターから検索サイトに切り替えて、ラーメンサラダに関する情報を探してみた。
どうやらラーメンサラダというのは、北海道で食される独特の食べ物らしく、一九八五年に札幌グランドホテルで考案されたものが発祥(通説)らしい。
まったく聞いたこともなかったが、本当にある食べ物らしいのでとりあえず安心した。どうやら老人の妄想の産物ではないようだ。
次に『ラーメンサラダ レシピ』で検索してみる。
かなりのヒット数。
一番人気のサイトをのぞくと、材料から作り方に至るまで、おどろくほど丁寧に記されていた。なるほど、さすがは人気サイト。きっとラーメンサラダのご意見番的な存在なのだろう。
(材料)
生ラーメン 1袋
(具材)
玉ネギ 2分の1個
鳥ささみ 1本
レタス 数枚
トマト 2分の1個
温泉卵 1個
(ドレッシング)
ごまドレッシング 市販
材料も手順も実にシンプル。ホロホロ鳥やムール貝が必要なわけじゃないし、二時間以上混ぜなきゃならないものもなかったので、極上のオムレツは作れないが適度な固さの目玉焼きなら作れる私でも何とかなりそうだ。
私は思いきり意識的に天井を見上げてから家を出た。
買い出しに行くためだ。
ものごとがラーメンサラダで進むなら、いくらでも作ってやる。
7
家を出て三歩も進まないうちに気づく事実。
ここは地獄のド田舎。
ぱっと見たかぎりあるのは、潰れた畑と潰れていない畑くらいで、隣家らしい隣家も、店舗らしい店舗もない。デパートやスーパーマーケットを期待するつもりはなかったが、商店の一つすらないような気がする。
この村の人たちは、どこで買い物をしているのだろう。
携帯電話でマップを開いてみた。
GPSが起動して、私のことを表示してくれる。
画面上に示されたちっぽけな点が私。
ちょっとしたゴミより小さな点が私。
その周囲に広がるのは緑だけ。
あとは数本の道路と、駅だけ。
どうやらこの村は細っている。
どうやらこの村は腐っている。
「何もないんだ」
思わず呟いた。
ここにきて初めて絶望した。
やっと正しく、絶望できた。
本当にもうしわけないとは思うけど、それでもたっぷり三十秒間、ナマコインフルエンザで死んだ両親を恨んでしまった。
恨みのパワーで人生前向き。ってキャラを演じながらマップをスクロールしてみても、ないものはないので、ないものはない。自分がいる村の住所を打ちこんでも、トピックスすら立っていない。ここまでくると、誰からも観測されていないのと同じだった。
ネット上に存在していないものと、どうやって対峙すればいいのだろう。
化石だけになった恐竜の方が、まだ生々しく感じられる。
私はツイッター上に、この村についての情報を求むと書きこむと、携帯電話を畳んだ。ここから先は肉体の時間だ。
駅までの道を戻った。
ちっとも舗装されていないので、お気に入りのミュールが汚れているのに気づいたけれど、別にしょんぼりしなかった。日焼け止めクリーム(SPF50プラスのバリバリのやつ)を塗り忘れていたくらいだから、考え方を変えたとまでは云わないが、考えるのをやめたくらいの表現は使えるだろう。
ひまわりだけ足りない道を歩いていると、すうっと心地良い風が流れて、うなじに溜まった熱を追い出してくれた。
畑の向こう側で、地平線を隠すように広がる林はさわさわ揺れていて、『もうお家には帰れないよ』と云ってるみたいだったけど、そんなことは解っていた。
私に家はある。
帰る家はない。
このレベルの不幸は、おそらく結構転がっている。顔も名前も忘れてしまったけれど、高校時代の友だちにそんなのがいた。
彼女はうまくいっていない両親に辟易して、年上の彼氏の家に転がりこんで、それでもちゃんとアルバイトして、学校にも通って、成績は私よりも少し良かった。そういう子、二、三人くらいはいた。
つまり、珍しくない。
飽きるほどくり返される『いろんな理由のいろんな不幸』は、その膨大なリソースの再構成だけで、無数に語ることができる。
そういう意味ではピザのトッピングと一緒だ。甘いものから辛いものまで、ハイカロリーからローカロリーまで、好きなだけお食べ下さい。組み合わせは無限大。
って考えると、自分の人生がちょっと軽いものに思えて嬉しかった。
目の前に広がる畑、林、青空、半壊した何かしらの小屋、畑に放置されたサビだらけのバス……他人ごとすぎて馬鹿っぽく見える田舎の風景にも、少しずつ慣れて行くのだろう。
ってことを考えた瞬間、さっきは気づかなかったものが視界に入った。
8
自動販売機だ。
あれこんなのあったかなと思うより早く、自分のノドが相当渇いていることに気づいた。
フルーツコーラ。全日本サイダー。珈琲紅茶牛乳。甘栗の天然水。ザブリコンX。てんぷく茶。梨クリームソーダ。
マイナーなジュースの博覧会。
すべてが壊滅的にまずそうだ。
いつもならスルーしていたところだが、ほかの自動販売機も見当たらないし、ノドの渇きに耐えられそうもない。小銭を入れて、ちょっと考えてからザブリコンXのボタンを押した。アルミ缶いっぱいに描かれた巨大なXのデザインは、見ようによっては赤十字にもテンプル騎士団十字にも見えた。
プルトップを開けて、念のため鼻を近づけてみる。グレープフルーツジュースに子供用せき止めシロップを混ぜたような匂い。前向きに考えれば、どちらも飲み物ではある。
一口飲んでみた。
「◎〆*△@■~~?」
香料と甘味料と合成着色料を炭酸でつなぎ合わせたデジデジする味だったが……飲めた。
もう少し正直に告白すると、おいしかった。
一番おいしいと感じる食べ物が東ハト『ビーノ』というスナック菓子の私としては、ものに味があるという感覚に興味を持たない私としては、逆説的に貴重な経験をしているのかもしれない。
ザブリコンXを飲んでいると、駅方面から一台の軽トラックが走ってきた。
それは私の前で急停止した。
埃が巻き起こり、目や口に入ってくる。私は砂利道の攻撃に生まれてはじめてやられながら、それでも顔を上げた。
運転席のドアが開かれ、薄汚れたオーバーオールを身につけた男が降りてきた。
少し腰は曲がっていたけれど、地面を踏みしめる足は力強く、指も太い。顔に刻まれたシワの角度は緩やかで、『老人』というよりは『おじいさん』という言葉を使いたくなるような人だった。結局また年寄りなのに変わりはないけども。
「ザブリコンX」おじいさんは太い指で私を指差した。「牛のエサ飲んじゃったら駄目さ」
「……今、何とおっしゃいました」
「牛のエサ飲んじゃったら駄目さ」
「これは、牛のエサなんですか?」
「いや人が飲むものだけど、牛にも効くんだな。エサに混ぜると喜んで食うから欲しいんだけど、この自販機でしか売ってなくてよ。貴重なんだわ」
「だから私が飲んでいるのを止めたわけですね。牛専用の飲み物って意味ではなくて」
「牛専用の飲み物なんてないさ」
おじいさんは愉快そうに笑った。
「ですよね」
私は安堵して腹部を押さえた。まぎらわしい言葉を使うのはやめてほしいと思った。
「あんた、国見んとこのお荷物かい?」
おじいさんが尋ねた。
両親が死んで以降、あらゆることを他人にまかせていたため、さらには文書の類にまったく目を通さなかったため、あの老人が国見という立派な苗字の持ち主ということを、今の今まで知らなかった。
「ただの観光客かもしれませんよ」
いくつかの感情処理が必要になったので、時間稼ぎとして適当なことを云った。
そうかあの老人は国見というのか。
聞き覚えがない。
一体どれほどの遠縁なのだろう。
「かんこう?」おじいさんは異国の言葉でも聞いたような顔つきになる。「こんな何もない村に、わざわざ遊びにくるやつなんかいないさ」
「でも白川郷とか軍艦島とか、結構人気らしいですよ」
「どこそこ」
「知りません」私は首を振る。「私、知らないことが多すぎるんです。だから、困っていまして」
「何に困ってるの」
「この村の人たちは、どこで食料を買ってるんですか?」
「ああ、そういうことかい。国見のワガママで困ってるんだと思った」
「慧眼ですね。あまり間違ってはいません……」
「よしよし、俺が連れってやるよ」おじいさんは軽トラックを指差した。「乗んな」
9
トラックの荷台に乗せられて、ドナドナ気分。
私はびっしり積まれた干し草をベッド代わりにして寝転んでいた。
風が心地いい。
エンジン音も軽やか。
巻き上がる埃すらエッセンス。
雲一つない青空の下、トラックで運ばれてどこまでも。
生足にちくちく刺さるのがアレだけど、干し草は柔らかく、とてもいい香りがした。『アルプスの少女ハイジ』で、ハイジがふかふかのワラのベッドで眠るのを観るたび、家のセンベイ布団にげんなりしていたのを思い出す。あれは五歳くらいのころだったろうか。
欠伸が出た。
まさか村での一番最初のリラックスが、走るトラックの荷台とは思わなかった。
「牧草はな、干し具合がかんじんなんだわ」運転席からおじいさんの声が響いた。「干してる最中、一回でも雨に降られたらおしまいだ。天気との勝負ってわけさ。勝つには、空の様子を見るしかない」
「天気予報では駄目なんですか?」
「あんな大ざっぱなもん、アテになるかよ。大体、都会の天気しか予報しねえだろが」
「おじいさんの空予報は、当たりますか?」
私が問うと、おじいさんは返事の代わりに、運転席の窓から腕を伸ばして親指を立てた。
それからしばらく会話はなく、のんびりとした移動はつづいた。文句はなかった。荷台の乗り心地はメルセデス級だったし(メルセデスに乗ったことはないけれど)、私としても疲れていたので、この思いがけない猶予期間に満足すらしていた。
ずっとこのままでも、別にいいかなってくらいには。
「この村でものを買うのは、ちょいと大変でな」おじいさんが沈黙を破った。「昔はストアーがあったんだが、そこの婆さん死んだとたんに息子夫婦が村から出ちまってな。おかげでスーパーマーケットに行かなきゃならなくなった」
「スーパーマーケット」何てキラキラする言葉なのだろうか。「そんなものがあるんですか」
「少しばかり遠いけど、村の者らはそこでほとんどの用を済ますよ」
「だけど、みんなに足があるわけじゃないですよね。車のない人とか、動けない人は……」
「欲しいもん聞いてさ、買ってきてやるわけ。そうしないと死んじまうからな」
「お気の毒な話です」
本当の意味で死活問題というわけか。
「ま、もう慣れちまったよ。それにジジババだらけの死んだ村だけど故郷だ。簡単に捨てることはできねえ。牛もいるからな」
「牛?」
「俺んとこは昔から酪農やっててな。だからあまり飲むなよザブリコンX」
「努力します」
私はうなずき、飲みかけのザブリコンXを口にふくんだ。これに良く似た味の飲み物を、ずいぶん前に飲んだような気がする。あれは何だったろうか。瓶に入って、すさまじい緑色で、駄菓子屋さんに売っていて……。
「へっ?」
デジデジした後味を楽しんでいるうちに眠ってしまったらしく、目を覚ましたときトラックは停車していた。
上半身を起こす。
景色は……同じだった。
道は舗装されていないし、広がるのは森や畑ばかりだし、人の気配もない。
スーパーマーケットに到着したら何かすばらしいものに出会えると根拠なく思っていた私は失望して、荷台から飛び降りた。
スーパーマーケットというより、派手な色彩の民家と形容すべき『ひいらぎスーパーマーケット』は、道のどん詰まりにぽつんと建っていて、昭和のパチンコ屋みたいな看板が切ないほど目立っていた。
自動ドアに貼られた『求人募集』と『特売品のお知らせ』の紙は色褪せて、四隅のセロハンテープは少し溶けていた。
中に入ると、漬物と釣りエサの匂いがした。
歌謡曲が流れる店内は、節電しているのか妙に薄暗く、そう広くもないのに見渡すことができない。さっきから商品棚からガサガザと音が聞こえるが、まあこれは確認しない方がいいだろう。
携帯電話でメニューの再チェック。
生ラーメンと玉ネギと鳥ささみとレタスとトマトと卵とごまドレッシング。
コンビニでも買えてしまいそうなラインナップだったが、私はもうこの村を完璧に信用していないので、期待しないまま店内をうろついた。
「おう起きたか。どうだい欲しいのはあったか?」
カップラーメンの棚におじいさんがいた。
「これ、置いてますかね」
私は携帯電話の画面をおじいさんに見せる。おじいさんは画面に顔を近づけると今回も親指を立て、店内を誘導してくれた。結構ポップな人なのかもしれない。
結果、生ラーメン(消費期限ギリギリ)と玉ネギ(正常)と鳥ささみ(消費期限ギリギリ)とレタス(少し萎びている)とトマト(やけに大きい)と卵(消費期限内)とごまドレッシング(消費期限内)を買うことができた。
レジを打つおじいさんは、肘より上をまったく動かさないので、こういうロボットに見えた。
帰りもトラックで送ってもらった。
荷台に寝転がりながら、ビニール袋に入った食材を一瞥する。
ああ私はこれからラーメンサラダを作るのか。知らない老人のためにラーメンサラダを作るのか。
またしても欠伸が出たが、眠るわけには行かなかった。
10
「……で、これは何だ」
「ラーメンサラダです」
「お前が作ったのかよ」
「ほかに誰かいますか」
そう云うと、どうやら国見という名前らしい老人は、やや不審そうに目を細めて、二階まで運んできたラーメンサラダに視線を向けた。
レシピ通りに作ったのだから、少なくとも見栄えはしっかりしているはずだし、味つけもドレッシング一つですむので、大外しはしていないはず。って考えを消し去るほどの目つきが気に入らなくて、早く食べてくれませんかと私は云った。
老人は嫌な感じの目つきをラーメンサラダに注いだまま、起こすのを手伝えと云った。どうして急に甘え出したのだろうと思ったが、それが甘えではないことにすぐ気づく。ベッドの端に手を置いて起き上がろうとしていたが、ちっとも体が起こせていないのだ。
老人。
この一日で何度も使ってきた言葉の意味を、今さら思い出す。
ああこの人は老人なのだ。
細胞組織が古ぼけた人間。
私より絶対先に死ぬ人間。
さらにこの老人は、一般的な老人よりも弱っているのではないか。
植木鉢を投げつけられたり大声で怒鳴られたりと、なかなか激しい展開が多かったせいで、そうした発想を抱くことがなかった。
「んだよぉ……見てんじゃねえ。ほらさっさと起こせよおおおおおぉ!」
叫び声も、今ならほんの少し冷静に聞くことができる。
だから私は無言のまま、老人の体を起こした。
びっくりするほど軽かった。
中身が発泡スチロールじゃないかと疑うくらいの軽さ。
私は老人をベッドの端に座らせると、次にラーメンサラダと箸を持たせた。介護でもしているような気分だった。
老人は手を合わせてから(少し意外)、ラーメンサラダを頬張った。表情がまったく変わらないので、どんな感想を持っているのか想像するのが難しい。だけど私はこの風景に、貧しさを感じることができた。金銭も年齢も関係ない、まっすぐな貧乏臭さだ。
同情。みたいなものは皆無だったけれど、いたたまれない気持ちにはなる。この感情がまっすぐ育てば、つまり同情になるのだろう。
老人は四分間ほどかけて、ラーメンサラダを平らげた。
「ごちそうさん」老人は再び手を合わせた。「なあお前、この食材、どうやって調達した」
「『ひいらぎスーパーマーケット』で買いました。あそこ、ラインナップはともかく鮮度が……」
「ここからずいぶん離れてるぞ。歩いて行ける距離じゃねえ」
「道でおじいさんに会いまして、その人がトラックで連れて行ってくれたんです」
「はっ、なるほどな」老人は鼻を鳴らした。「ザブリコンXの野郎だろ?」
「そうです。知ってました? ザブリコンXは牛の飲み物じゃなくて……」
「ザブリコンXの話はするな!」なぜか怒られた。「それよりお前、マヨネーズはどうしたんだ」
「マヨネーズ」
「このラーメンサラダにはマヨネーズがかかっていない」老人は小説のタイトルで読み上げるような感じで云った。「さてはお前、買い忘れただろ」
指摘されたので、携帯電話のメモに目を通してみたが、レシピにはマヨネーズとは書かれていなかった。私は無実だ。
その旨を伝えてみると、
「くそ馬鹿野郎が! 改めて書くまでもなくラーメンサラダにはマヨネーズが入ってるんだよ! 常識なんだよ! だからレシピに書いてねえんだよ! ごまドレッシングだけで食わせやがって」
とのこと。
結構、かちんときた。
「何も……そこまで怒ることはないと思いますけどね。私、ほんの少し前まで、ラーメンサラダなんてものがこの世にあることも知らなかったんですから」
「だからお前は調べた。そして知った。その結果がこれだ」老人は空になった皿を指差した。「責任はお前にあるんじゃねえのか? あ?」
「でも私、がんばって作りましたよ」
「そうだな。指も切ったようだしな」
老人は私の親指に視線を向ける。
そこには絆創膏が貼られていた。
私は反射的に手を隠した。
「まあいいさ。作ってもらったのは事実で、俺が食い尽くしたのも事実だ。今回のラーメンサラダについては、もう何も云わねえ」
「同情ですか」
「お互い同情することでうまく行くなら、それもありじゃねえの」
「私、あなたに同情してはいません」
「俺だってそうさ。云ってみただけさ。お前がみなしごになろうが、独りぼっちだろうが、知ったことか」
「だったらどうして、私を引き取ってくれたんです?」
「お前は奴隷以下だ。この話を、また聞きたいのかよ」
「結構です」
「だったら下らない質問はよせ」老人は私に皿を渡した。「満腹になったし、俺はもう寝る。明日の朝まで起こすんじゃねえぞ」
11
皿を洗う以外やることがないまま夜をむかえ、そして夜は眠るほかにやることがない。
私は自分の部屋となった和室に布団を敷いてもぐりこんだ。
間接照明に照らされた仏壇が重々しかったが、どうせそのうち慣れてしまうだろう。私は自分がいろんなことに慣れるのを知っている。証拠として、両親のいない世の中にはもう慣れていた。この村での生活も、すぐ慣れるに違いない。良い悪いは別として、そういうものだ。
枕元の携帯電話がチカチカ点滅したので見てみると、戦争君からメールがきていた。
『さっきまでカラオケだったわーー。めっちゃのど痛いよー。あとハイボールってうまいね』
私の現実と戦争君の現実が、完璧に離れてしまったことに気づく。
だから私は二度と戦争君に感情移入できないだろうし、戦争君もまた私の気持ちを知ることはできない。
『この村にはカラオケもないの。何もないの。助けて。私を迎えにきて』と送ってみたら、戦争君はどんな反応を示すのだろうか。『そうなんたーわかった』と、誤字すら気にしない勇敢な返信がやってくるのだろうか。
もちろん戦争君はそんな返事をしないし、私もそんなメールを送らない。思考実験にすらならない現実。
そんな現実は、明日も必ずやってくる。
メールの返事を出そうと思ったが、調理のときに傷つけた親指がボタンを押すたび痛むので、結局無視する。携帯電話を閉じる前に、ツイッターをチェックしてみた。
ラーメンサラダについて、多くの人からリプライがきていた。
この人たちは、私というネット上の存在に、どんな気分でこうした感想や情報を送ったのだろう。そして私は、どんな気分でそれらに反応すればいいのだろう。
ちっとも解らなかったので、眠ることにした。第一章の終わりというわけだ。
寝て起きれば朝がくる。それも現実。
(ここまで)





